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江戸時代になると、富士山の登拜が庶民の間でも広く行なわれるようになった。庶民は富士山への信仰を強くし、特に江戸の各地には富士山を遥拝する富士塚が多く作られた。富士塚は土を盛って作られた人工の小さな山で、富士山がよく見えるところに作られ、山頂には浅間神社が祀られて、富士山に行くことが出来ない人たちでも擬似的に富士山の登拜を体験することができるようにするものである。

こうした富士山信仰の高まりを受け、江戸時代には富士山信仰を基盤とした神仏混交の新宗教が多数登場した。新宗教は江戸で布教を行い富士講を組織して幕府にとっても無視できない規模になることもあり、幕府が富士講禁制の町触を出すこともしばしばであった。例えば、1774年から1849年に江戸町奉行所は7回の禁制の町触を出している。[5] これらの新宗教は明治期の激動を潜り抜け、今でも実行教・丸山教・扶桑教などと脈絡を保ち続いている。現在においても富士山は新たな信仰を生み出す基盤となっており、オウム真理教、法の華三法行が富士山の麓に本部を置いたことがある。

また、日蓮正宗の総本山である大石寺も、富士山の麓である静岡県富士宮市にある。これは、「富士山に本門の戒壇を建立すべきものなり(要旨)」との宗祖・日蓮大聖人の遺命に基づき、大聖人の御入滅後、大聖人の六大弟子僧(いわゆる六老僧)の一人である日向、ならびに、身延の地頭・波木井実長が謗法を犯したことにより身延山を離山(いわゆる身延離山)した日蓮正宗第二祖の日興上人が、南条時光をはじめとする弟子檀那(信徒)らの寄進(御供養)を受けて、1290年に富士山麓の大石ヶ原(「おおいしがはら」と読む。現・富士宮市上条地区)に開山・建立したものである。

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